【特別編】熊本の不思議なお話

【特別編】熊本の不思議なお話

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<はじめに>

平成28年に発生した熊本地震で被災された皆様へ。

熊本地震で犠牲となられた方々に謹んで哀悼の意を表しますと共に、被災者の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。

被災された皆様におかれましては、一日も早く、生活と安全が確保されることを心からお祈り申し上げます。

 

2017年4月16日は、昨年に発生した熊本地震の本震からちょうど1年になります。

今回は、熊本県出身の村神徳子氏が、熊本県の不思議なお話をご紹介。

 

 

身代わりになった少年飛行兵(菊池 花房飛行場) 

昭和19年4月。難関の少年飛行兵に志願し入校した軍国少年たちは、陸軍生徒から上等兵に進級していた。
その中に通信兵となった前田祐助さん(当時18歳)がいた。

昭和20年5月13日。米軍はこの飛行場を爆撃する。

 

前田さんはこの日、週番兵だった。
突然の空襲警報発令と共に、それぞれの部署についた。

週番の彼と戦友の宮内さんは、一度は壕に入ったが、お昼になっても来襲がないので炊事場に食事を取りに行こう、となった。

2人で行く必要もないので、どちらが行くか争ったが、「俺が行く!」と宮内さんの強引さに押し切られ、前田さんは残ることとなった。

宮内さんが2人分の飯ごうを持ち、炊事場へ出た直後のことー

「敵機来襲!」

大きな声に空を見上げると、まさしく急降下してくる敵機数十機、ロケット弾、爆弾、機銃掃射。
爆音、轟音、砂煙、一瞬にして戦場と化した。

前田さんが入った壕は兵舎から50メートルほど離れていた。
爆風が何度も腹に響き、壕の天井から砂をかぶりながら、波状攻撃が去るのを待った。

音が止み、外へ出た彼は、その光景に驚いた。

兵舎は2つに破壊され、前に大きな穴が開き、その土が4、50人の位の戦友が入った壕を埋め尽くしていた。

助かった仲間と必死になってその壕の土を掘り起こしはねのけ、首だけでも、鼻だけでも上に向け呼吸ができるようにしてやった。
早く1人でも掘り出したいと焦りながら、彼は宮内さんを探す。

手作業でなかなか掘り起こせない。その時、悪夢の第二波が襲う。

「敵機来襲!」

その声に後ろ髪を引かれる気持ちで避難した。
今度は執拗なまでの機銃掃射だった。

やっとそれが去り、再び戦友たちの埋まっている壕に行く。
その光景に、胸がつぶされる思いだった。

なんと、土から鼻や首だけ出してやった戦友たちは機銃掃射の標的にされていた。
次々と遺体が掘り出され、その一番下に、2つの飯ごうを腕にかけ、手で目と耳を押さえて冷たく固まった宮内さんがいた。

その後、壊れた兵舎の木材を集め、戦友たちの遺体を火葬した。
前田さんは火葬場衛兵として、一晩中赤い炎を見つめて立っていた。

 

28機の米軍機グラマンが数回に渡って爆撃した兵舎も格納庫、飛行機などもほとんど全滅した。

 

次の日の5月14日。

戦死した宮内さんの代わりに、生駒さんと2人で皆の貴重品を入れた小箱を探しに兵舎に向かった。
屋根は吹っ飛び、階段は壊れていたが、なんとか二階に上がる事ができた。

無残な有様だったが、奇跡的に手箱は無事だった。
貴重品を生駒さんと2人で分けて身に着け、出ようとした時だった。

空襲警報と同時に敵機襲来の声が遠くから響く。

2人は兵舎を飛び出して、教育隊本部の裏にあるこんもり茂ったクヌギ林に向かって走った。
その時、2機のグラマンが低空飛行で旋回しているのが見えた。

クヌギ林は新緑に覆われて美しく、二人の体を隠すのに十分だと思った。
ほっとしている前田さんに対して生駒さんは言った。

「俺達が逃げ込むのを敵機に見られていて、敵はこの森の中に大勢の兵がいると思って爆弾でも落とされたら一発でお陀仏だ。出よう!」

「ここなら大丈夫だ。むしろ動けば危ない!」

「いや、行くぞ!」

生駒さんはそう言うと前にある桑畑に向かって走り出して行った。
クヌギ林に1人になった前田さんも恐ろしくなりすぐに生駒さんの後を追って走った。

「前田、伏せろ!」

その瞬間、桑畑のうねの間に前田さんは突っ伏した。

閃光が走り、腹を圧する爆風と共に頭からザーッと土を被った。

250kg爆弾が落とされたのだ。

土煙が収まって振り返ると、爆弾で跡形もなく消えたクヌギ林が目に映った。

あと10秒判断が遅れていたら、前田さんの体は肉片も残さずに確実に吹き飛び散ったことだろう。

 

だがそれだけではすまなかった。

 

2人の兵に更に危険が迫る。
2機のグラマンは機銃掃射で二人を追いつめる。

13ミリ機関砲で狙い撃ちされ、何度も何度も右に左に逃げ回った。
体の真横をかすめる弾。当たれば即死。

運よく機銃の弾が切れた。

助かったのだ。人間の生と死の瞬間であった。

急降下してきたグラマン。自分達と同じ年くらいの米軍パイロットがオレンジ色のマフラーをたなびかせ、確かに笑った。

前田さんはこの光景を70年以上経った今も忘れない。

 

 

<あとがき>

当時の若者の中で、飛行兵の学校に入れるというのは、学力、精神力、身体能力全てにおいて超優秀な人であった。
全国から集まった精鋭の少年飛行兵の戦友たちがここにはいた。

陸軍航空通信学校菊池教育隊。今は「花房飛行場跡」として残っている。
陸軍航空隊は福岡の大刀洗が主力基地であり、練習基地として、また知覧の特攻隊の中継基地の位置づけにもあった。

前田さんは通信兵であり、特攻機の成果を報告するのが仕事だった。操縦兵、整備兵と適性によって決まっていた。

特攻が始まった頃、最も優秀な人からその任についていったという。その方が戦績、成果が上がるからだったそうだ。

菊池の花房飛行場はその後開拓され、宅地になり昭和29年には保育園ができた。当時の飛行場の建物を一部使用して作られた。

保育園の卒園生はもう69歳になるという。戦後は新しい子供たちをはぐくむ場所に変わり、笑顔が溢れる場所となった。

また近くの孔子公園には菊池飛行場ミュージアムがあり、ここで花房飛行場の戦争遺産と当時の資料を見ることができる。

そして毎年5月13日には慰霊祭が行われている。
当時の軍人の精神力を、現代の私たちがはかることは難しい。

ただ、若く英邁な命が、日本の宝だった若者が散っていった時代があったことを忘れてはならないだろう。

前田さんから頂いた資料には、16歳の頃の写真があった。美少年の飛行兵姿だった。
彼は遺影にと、事前に撮った写真だと話してくださった。

また少年飛行兵達の集合写真は、悲しいほど皆幼い顔、低い背丈だった。
この子たちが、あの爆撃で一瞬で亡くなってしまったことを思うと、写真を見ただけで涙があふれた。

また、筆者は奥様にもお話をうかがうことができた。
気丈な前田さんだったが、辛いご経験から夜中にうなされて起き上がることがしばしばあったそうだ。
その彼を優しく温かく支えた奥様もまた、戦時中は空襲で恐ろしい目にあっていた。

90歳を迎える元少年兵と奥様の人生も、数奇の連続であったろう。今も毎年の戦友たちの慰霊祭に出席される。
渦巻く思想の塊が強大な権力となる日が訪れないことを願う。

 

そしてこれ以上悲しい霊魂が地上に彷徨わないことを願う。

 

<参考著書>

「身代わりになった戦友」前田祐助著
 菊池飛行場ミュージアム資料

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